先日、マンデーだからブルーだと書きましたけど、火曜日になってもブルーが抜けなかった私。
もはやマンデーが原因じゃなかったのか(笑)
不登校児の親で、不安や心配を感じない人はいないと思いますけど、私も、本音を言えば、常に不安はあります。学校に行ってないってことは勉強も進んでないし、うちの子学習障害があるし、将来の不安は拭えません。子どもは、多分「今」しか見てないっていうか、今を生きるのに精一杯頑張ってるんでしょうけど、私はどうしても、10年後とかを考えてしまう。そんで勝手に不安になって、その不安を子どもにぶつけてしまう。
いまだに、学校に行けばいいのにみたいなこと、言ってしまいます。行けたらとっくに行ってるよって、多分息子は心の中で思ってると思う。学校信仰(学校にさえ行けばなんとかなるとか、学校に行くこと自体が目的化する固定観念を私はそう呼んでいる)は捨てたはずなのに、まだ取り憑かれます。自分が家族に心無い言葉をかけてしまう時、私は自分に悪魔が取り憑いたみたいに感じるんですけど(そのくらい、自分をコントロールするのが難しく感じる)、この悪魔って、要は自分が正しいと信じ込んできた、伝統とか、自分の親の価値観とか、先生に教え込まれた「良い行い」とか、そういうものなんだと思う。
この本、ご存知の方も多いのかもしれないけど、著者の経歴が面白くて、元外科医なんですよね。交通事故で臨死体験したのを機に、霊性に目覚めたそうです。
この著者、私たちがたった今見たり、聞いたりしていることは全て「夢」だと言い切っています。
人間は常に夢を見ている。私たちが生まれる前、人間は、社会の夢、あるいは「地球の夢」とも呼べる大きな外側の夢を作り出している。地球の夢とは、何百万もの小さな個人的な夢の集まりであり、(中略)全ての社会の規則、信念、宗教、異なった文化や、その現れ方、たとえば政府や学校、社会的な行事、休日などの全てを含んでいる。
リアリティは、夢。社会でどう振る舞うか、何が良くて何が悪いことなのか。私たちは、子どもの時に、周囲の大人から、こうした「外側の夢」を学び、自分の中に、夢または「信念システム」を創り出す。この信念システムは、「法の書」でもあり、私たちにとっての「真実」として、心を、私たちの人生を支配する。私たちの中には、「裁判官」と、「犠牲者」が同時に存在していて、自分の「信念」に反することをすると、この「裁判官」に裁かれる。
「法の書」にあることを破ると、胸に奇妙な圧迫を感じる。これが恐怖である。(中略)そして、恐怖という反応は感情的な毒を体の中に創り出す。「法の書」に書いてあることは、なんでも真実でなければならないため、それに反することは、自分の信念に反することになり、それによって人は非常に不安になるのである。たとえ「法の書」が間違っている場合でも、それに従うことは、安心感を与える。
信念に挑戦することが、非常な勇気を必要とするのは、このためである。たとえ、私たちがそうした信念を選んだのではなくても、それに同意したのは確かである。この同意が非常に強力なので、もしそれが真実でないことを概念的に理解しても、私たちは規則に反したと言うことで罪悪感、恥の感覚を抱くのである。
私がマンデーのせいにしてた憂鬱や不安は、これかもしれない(笑)
いったい、何度、私たちは、自分たちの連れ合いや、子供たち、両親に同じ間違いに対する償いをさせるだろうか。間違いを思い起こすたびに、私たちは彼らを責め、不正義と感じることに対する感情的な毒を彼らに向かって投げつける。そして、同じ間違いに対してつぐないをさせる。これが正義だろうか。心の中の「裁判官」は間違っている。それは「法の書」が間違っているからである。全ての夢は、間違った法に基づいている。私たちの心の中にある信念の内、九五パーセントは、嘘以外のなにものでもない。私たちが苦しむのは、嘘を信じているからなのである。
すごいな、この著者、恐ろしいくらい物事の本質を捉えてると思う。私はここで言う自分の中の「毒」を、要は恐怖を、一番大切なはずの家族に、心無い言葉を使って投げつけてきたと思う。著者の言うとおり、私の「信念」の殆どが嘘だとしたら、いったい私は何様なんだろう。
私が対峙しないといけないのは、自分の抱えてる恐怖なんですよね。「ふつう」から外れる、要は「いい子」じゃなくなるかもしれない恐怖。いったい私はいつまで、学校や親にとってのいい子を演じるつもりなんだろう。不安を感じる必要はないって頭で理解しても、また「裁判官」が出てくる。一人で堂々巡りです。
変わりたいんだけど変われない。こういう苦悩は多くの人が味わうものなのでしょうか。
親が子どもに怒りを感じる。この時の怒りの根底の大半が、この恐怖なんじゃないかと思う。自分が信じきってきたことから離脱する恐怖。怖いから、叱りつけて、言うことを聞かせる。でもそれをやると、自分の2号みたいな人間が育つだけで、どこかで誰かがこの連鎖を断ち切らないと、何も変わらない。
子育てしてると、結構クローズドな環境に身を置く(自分の子ども以外の人との関わりが減る)から、悩むとスパイラル的に、気持ちが落ちてしまって、どうにもならない時があります。そういう時、今まで読んできた本が助けてくれる(笑)今回もそう。この本の訳者である松永太郎氏は、あとがきで、この「永遠の哲学」または「非二元の哲学」は、その言葉を受け取っただけでは理解できないし、なにもならないということを指摘しています。哲学全般が、そうだと思う。経験とか実践が伴わないと、なんにもならないというか、腹落ちしないですよね。丸山眞男も、哲学書を読破しましたみたいなことを言う学生に、似たような指摘をしていたと思う。
そういう意味では、私の苦悩も意味があるんだと、思えてきます。
この本でもう一つ救われたのが、「ベストを尽くす」。これ、わたしは限界まで頑張ることだと受け取ってしまうんですけど、そうじゃないそうです。ベストは日によって違っていいし、むしろ完璧を目指すなってことでしょうか。完璧を目指してもきっとそこに届くことはないし、届かないと思うとまた自分を罰することになりますよね。
私が昔から、今も時々お世話になってるヨガの先生が、「いい加減」でヨガしてくださいって言うんですけど、これも、やりすぎるなってことなんですよね。やりすぎないベスト。けっこう難しいんだけど、例えば一日だけでも、一瞬でも、これまで自分を縛ってきたものから解放されて笑顔になれる。それでいいんだと、思えます。
なんとなく、子ども達に笑顔でいられた木曜日。子ども達からすると鬼みたいな顔してたかもしれないけど(笑)明日も頑張ろう。
